喧嘩魚 鮎と根尾川と漁師たち(デジタル版)
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目次

喧嘩魚(けんかうお) 5       

火ぶり漁  19            火ぶり漁

投網漁(とあみりょう)  41     投網漁

テーナ漁  51            テーナ漁

鮎の友釣り  71           鮎の友釣り

根尾川の悲劇  89          根尾川の悲劇

鮎(けんかうお)  103       

喧嘩魚(けんかうお)


 天然鮎仲買人、栗本勇が叫んでいる。

 仲買人たちが、天然鮎を競り台の上で、必死に奪い合っている。

 別の仲買人が、赤鬼のような形相で顔を真っ赤にして怒っている。

「こっちにも回さんか、バカヤロー」

 競り子もいちいち構ってはいられない。一気に何百箱の天然鮎を、競り切らねばならな

いからだ。

 岐阜市中央卸売り市場「天然鮎競り台」、それは正に戦場そのものだ。岐阜市中央卸売

り市場には全国各地から、数多くの魚介類が集まる。魚介類との並びで、岐阜特産の柿や

梨、野菜類などの青果市場が隣り合わせている。岐阜市周辺の一〇〇万人の胃袋は、この

三ヘクタールほどの市場によって満たされている。東京築地とまではいかないものの、一

般庶民が普段目にすることのない活気が早朝より漲っている。

 岐阜市中央卸売り市場には、ほかの市場にはない、天然鮎の競り台が二つある。岐阜魚

介近海二課天然鮎競り台、もう一つは岐阜丸魚天然鮎競り台だ。

 普通、魚介類はパレットなどの上で競るのだが、天然鮎は一段高いオールステンレス製

の競り台の上で競る。高さ一メートル、畳六畳ほどの競り台に、競り子も仲買人たちも、

ところ狭しと上がり、天然鮎を巡って激しいバトルを展開する。市場の中でもこの競り台

のあたりだけは異常なほどの熱気とオーラが漂っている。

 仲買人には、天然鮎専門の仲買人数社。鮪や鯛などの一般魚介類などと平行して、天然

鮎を扱う仲買人が十数社。養殖鮎や鰻などの淡水魚が中心の仲買人が数社あり、各顧客の

注文に応じて競り落としていく。

 ただし、天然鮎漁は自然相手の漁業だけに、毎日の出荷量が激しく変動し、仲買人の頭

痛の種を作っている。川は海と違い、水量や濁り具合、水温が日々変化し、これが鮎漁に

大きく関ってくる。突然の夕立などで川が濁った日には、休漁になることもあり、出荷量

が大幅に少なくなる。当然、競り値はどんどん上がり、注文に応じ切れなくなってしまう

のだ。

 それでも、長良川鵜飼の開催期間(五月一一日から一〇月一五日までの間)は、たとえ

大型台風などが直撃するなどの悪条件下でも、まったく出荷がないことはない。むしろ、

出荷量の減少を見越し高値の期待感から、思わぬ大量の鮎が集まることもあるほどだ。

 鮎漁師は金儲けが大好きなため、たとえ嵐の中へでも命がけで出漁する。天然鮎は、同

じ第一次産業の農業や別の漁業の出荷品に比べて競り値の変動が特に激しい。漁師はこん

な時は高値を狙うチャンスだとしっかり心得ている。

 鮎漁師にとっては水揚げ一〇キログラムで三万円より一キログラムで三万円の方が同じ

売り上げでも遥かに嬉しい。自分の獲った鮎が高く評価されたと勘違いをして深い充実感

に浸っているのだ。

 また、今日は十分納得の漁獲量と相場だったとしても、ほかに大漁の漁師がいると気分

は冴えない。結果的にはよくても要するに気分の問題だ。鮎漁師はほかの漁業の漁師と違

ってライバル意識が旺盛で、どんなことでも自分が一番でないと気に入らない。普段の生

活の中では少々腹が立つことがあっても我慢するのだが、鮎漁に関してはそれができない。

だから鮎漁師はいつも怒ったり喧嘩してばかりいる。よく見ればそれが鮎漁への意欲にも

繋がっている。

 魚介類の競りは午前五時に始まるが、天然鮎の競りは毎朝午前六時ジャストに、サイレ

ンと共に開始。岐阜魚介と岐阜丸魚が一日交代で、先番と後番を務める。この二社間でも、

荷主の激しい奪い合いが見られる。ごく普通に会話を交わし、挨拶もし、互いの営業協力

も惜しまない二社が、こと、天然鮎の話になると、源氏と平氏ほどのライバル意識を燃や

すのだ。互いに相手の得意荷主を口説き、奪い取る。集荷料金の値引き合戦。解禁前の漁

師への挨拶廻り。五月一一日の解禁日が近づくと両社の仕事が一気に増える。頑固で気難

しい鮎漁師へのご機嫌取りは、とても骨の折れる仕事だ。

 もともと、天然鮎は岐阜魚介近海二課の専売特許のようになっており、ほとんどの荷主

を掌握し、独壇場だった。しかも荷が多い分、競り値も常に一枚上だった。

 しかし、岐阜丸魚は、「わが社の未来は天然鮎なしにはありえない」とばかりになりふ

り構わぬ荷主のリクルートに動いた。なりふり構わぬというより、企業努力といった方が

正しいだろう。夜討ち朝駆けで次々に荷主を口説き、とうとう今では互角になってしまっ

た。ほかの魚介類では考えられない、正に喧嘩腰の真剣勝負なのだ。

 天然鮎専門仲買最大手「柿勇」社長、栗本勇が言った。

「鮎は喧嘩魚やあ。川にいる時は縄張り争いで喧嘩し、漁場を巡って漁師が喧嘩をする。

鮎は死んでからも仲買人や魚屋が取り合って喧嘩し、塩焼きになってまで、人々はそれを

奪い合う。これが喧嘩魚やなくてなんなんやー」

 彼の言葉は間違っていない。俺は川で漁場を巡って、漁師たちが喧嘩するのを幾度とな

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く見ている。血の雨が降る寸前になることも日常茶飯事だ。

 これも鮎が持って生まれた、「縄張り主義」の特異性が生み出すものなのだろうか?

はたまた、天然鮎の魅力に取り憑かれた人たちの、独占欲から来るものだろうか?

 魚偏に独占の占と書いて鮎。不思議な魚だ。

 

 天然鮎は県内各地から市場へ集まってくるが、やはり中心は圧倒的に長良川筋が多い。

長良川下流漁協管内の漁師の鮎は、ほとんどが川舟を使用した夜川網漁で獲った天然鮎

で、岐阜魚介、岐阜丸魚が早朝集荷している。

 長良川上流の郡上漁協では昔から、「友釣り漁」が盛んで、漁協などが「友釣り師」の

釣った鮎を共同選別して、出荷している。友釣り師たちの持ち寄った鮎を、大きさ毎に一

キログラム入りの木箱に並べて、早朝市場へ出荷する。一〇〇グラムの鮎なら一〇匹、五

〇グラムなら二〇匹入りになる計算だ。鮎は大きさ毎に、一匹ずつ伝票に書き込み、後日

清算される。

 魚介類の競り売りの手数料は五.五%、木箱が一〇〇円、氷代、運賃、漁協の手数料な

ども必要だ。すべて計算するのも大変なので競り値の一律三〇%をすべての経費にしてい

る。漁協の上前をはねて、二〇%で取り扱う業者もある。

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 郡上漁協の場合、仮に一匹一〇〇グラムの鮎が一箱一万円で売れれば、友釣り師には一

匹に対して、七〇〇円の実入りとなる。これが友釣り師の大きな楽しみになり、文字通り

趣味と実益を兼ねた点で、友釣りの魅力を一層大きくしている。優秀な友釣り師は、その

日の相場にも左右されるが、一日三万円ほどの水揚げならざらにある。仕事そっちのけで、

鮎釣りに走る友釣り師の気持ちもよく分かるような気がする。

 そのほか、おとり店や魚屋、八百屋などが釣った鮎を買い取り、大きさを揃えて、木箱

に並べ、出荷するものもある。また、漁師自らや釣りクラブ、釣り大会などの鮎が持ち込

まれる場合もある。

 郡上漁協から出荷された友釣り鮎は「長良川郡上鮎」として、しっかりとしたブランド

性を持っている。郡上漁協は品質管理が徹底していて、大きさの選別や鮮度の保持には相

当気を使っているようだ。郡上漁協の出荷した鮎の中に鮮度の落ちた鮎が混ざっているこ

となどまったくない。また、郡上市一帯の広大な流域面積の漁場が生み出す友釣り鮎の水

揚げ量は半端ではない。常に安定した出荷量と徹底した品質管理が郡上鮎を一流ブランド

に仕立て上げたのだ。どんな品目にもいえることだが出荷量が安定しないと、いくら優れ

た商品でもブランド品にはなれない。ほかの河川と違い、ダムのない大河が持つ安定した

水量が郡上鮎の大きな強みになっている。

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 最近、天然鮎においても産地証明書付で納品することも多くなったが、長良川産だから

だというよりも、むしろ、「郡上漁協出荷鮎」といった安心感がブランドを支えている。

商売は信用第一。郡上漁協が身をもって教えてくれている。

 我らが漁場「根尾川」の鮎も決して郡上鮎に劣る訳ではない。むしろ石灰岩質の石が多

い川の魚が持つ特有の香ばしさがある。何処の川の友釣り師もご当地自慢は一緒で、一様

に自分の地元の川の鮎が一番美味しいという。俺は岐阜県中のあちこちの川で自分自身で

釣った鮎を食べてきたが、香ばしさの点では根尾川産に軍配が上がる。ただ決定的な味の

違いは俺には見分けられない。天然鮎は何処の川の鮎もみな美味しいと真から感じている。

まして自分で苦労して釣った鮎ならなおさらだ。

 天然鮎の場合、一匹、一〇〇グラム前後、一箱「一〇匹入り」の大きさが人気が高く、

大き過ぎても、小さ過ぎても値は落ちる。極端な話、五匹で一キログラムになる鮎があれ

ば、一〇〇匹で一キログラムの鮎もある。平均的大きさから極端にかけ離れた鮎はどうし

ても割安になってしまう。

 また、鮮度や内臓のあるなしによっても、値は微妙に違ってくる。近年は内臓を取り除

いた「抜き鮎」の人気が高い。焼き上がりが良く、日持ちがいいのが理由だ。

 仲買人の中に、「鮎を見れば、どこの川の鮎か俺には分かる」という人がいるが、これ

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は真っ赤な嘘。仲買人は岐阜県の漁場のことは熟知してはいるが、荷主の伝票を見て判断

するだけで、どこの川で釣った鮎かは「友釣り師のみぞ知る」ということになる。仮に郡

上以外の川で釣った鮎を郡上漁協へ持ち込んだとしても、その鮎がどこの川で釣り上げら

れた鮎かを識別出来る人など一人もいないのが現実なのだ。しかし、郡上市近辺の木曽川

水系やすぐ下流の長良川中央漁協管内の鮎もいずれ劣らずの立派な鮎だから、なんら問題

ない。

 ただし、養殖鮎と天然鮎の違いはかなりはっきりしていて、魚屋を欺くことはできない。

時々、養殖鮎を木箱に並べ、天然鮎として出荷する新参者を見かけるが、養殖鮎より安く

買い叩かれてしまうのがオチだ。

 

 鮎といっても天然鮎と養殖鮎とでは、種目が異なっているのではないかと思えるほど、

特性が違う。見た目も味も香りも性格まで違う。

 晩秋に川の中流域で産卵孵化した稚鮎は、流れに身を任せ、数日で伊勢湾に流れ着き、

幼年期をここで過ごす。翌春には三〜一〇センチメートルに育ち、再び上流を目指して遡

上を開始する。この遡上鮎はもちろん天然鮎だ。しかし、養魚場の人口孵化の鮎や琵琶湖

産、海産の鮎を漁協などが買って放流した鮎、これもまた立派な天然鮎なのだ。

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 人口孵化で尚且つ池で飼われた鮎でも、一旦川に放流され、川で一ヶ月も過ごせば野生

化して、天然遡上鮎と性格も味も似てくる。体型はそれぞれに多少の個性はあるものの、

天然鮎には変わりない。石に付いた珪藻を食べることにより、香り高い「香魚」になる。

鮎は別名、香魚と呼ばれているが、香りの根源はこの珪藻にあるのだ。

 琵琶湖産鮎は成長が早く、縄張り意識も強いので、鮎の友釣りには適していて、昔から、

放流するなら琵琶湖産鮎と相場が決まっていた。しかし、近年、細菌性冷水病による不評

で、人口孵化の無菌鮎に切り替える漁協も多くなった。

 

 根尾川筋には多くの鮎料理店がある。実際に簗を仕掛けて、天然鮎を捕獲している店も

ある。しかし、店で出される鮎はほとんどが養殖鮎。金に糸目をつけずに天然鮎を指定す

るか、自分で持ち込まない限り、天然鮎が口に入ることはまずない。

 ただし、養殖鮎を天然鮎と思い込んで食べている客もかなりいるようだ。そもそも鮎に

天然と養殖があることすら知らない人もいるくらいで、「旨ければなんでもいいんだ」が

本音なのか。

 近年、「半天然鮎」とか「天然仕立て鮎」といった名称の鮎が出回っているが、これは

まったくの養殖鮎。正式には「半天然養殖鮎」とか「天然仕立て養殖鮎」などが正しい言

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い方のような気がする。二、三日餌を絶ってスリム化し、天然鮎に体型を少しだけ近づけ

ただけで、本来の天然鮎的要素はなにもない。天然という言葉に弱い、客の弱点を突いた

「いんちき名称」だと俺は思っている。

 岐阜市中央卸売り市場では、天然鮎一箱(約一キログラム)、六万円の高値を付けたこ

とがある。時の相場にもよるが、一箱一〇匹入りで一万〜二万円は通り相場だ。

 フルコースの養殖鮎料理は刺身に始まり、塩焼き、魚田、赤煮、フライ、鮎雑炊で締め

る。約八匹の鮎が使われて、根尾川筋では三〇〇〇円前後だ。この価格で、天然鮎を使用

しては、大赤字は目に見えている。また、この値段はほかの河川の鮎料理店に比べるとか

なりお値打ちだ。ざっと、三割は安いと俺は見ている。

 ほかの河川の事情は知らないが、こと根尾川筋に於いては、鮎料理店の経営者が、料理

旅館などの商人出身者と、鮎漁師出身者に二分されている。商人は利益を最優先にするが、

漁師は面子が最重要課題。ほかの店より、自分の店の客の数が少ないことがなにより腹立

たしい。なんと言っても喧嘩魚を商売にしているからには、やむを得ないことだ。従って、

昭和後半の鮎料理全盛期の頃、漁師間の価格競争が始まった。利益を度外視した客の争奪

戦は、商人鮎料理店を巻き込み、最後には損益ぎりぎりの低価格が定着してしまったのだ。

 利益が少ない分、宣伝費に回す予算がなく、ほかの河川沿いの鮎料理店に比べ、かなり

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のマイナー性を持っている。新聞などの宣伝は極僅かで、テレビでの宣伝などはほとんど

見たことがない。しかし、口コミの宣伝効果は絶大で、鮎料理が下火になった今でも、根

尾川筋の店はかなりの賑わいを見せている。揖斐川筋や長良川筋からの客も、相当流れて

きているようだ。確かに客にとっては少しでも安い方がいいに決まっている。宣伝費も回

り回って「自分が払っているんだ」としっかり認識できる客なら尚更のことだ。

 漁師経営の鮎料理店の店長と顔を合わすと、「あの店、客の入りはどうか?あっちの

簗はどうか?」などと尋ねられることがしばしばある。

「俺は鮎料理など、まったく興味ないから知らんわぁ」と答えるが、ほかの店が気にな

って仕方ないのは、鮎漁師の性だから仕方がないことだ。

 面子を保つために、値引き合戦をする漁師のお陰で、安く鮎料理を食べられる客は、こ

れぞ「漁夫の利」といったところか?

 

 

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